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「南南東を向かずに考えた、感覚と論理」
2026年02月06日

恵方巻という文化は、いつからこんなに全国区になったのだろう。

発祥は大阪を中心とした商人文化で、商売繁盛や無病息災を願い、その年の恵方を向いて太巻きを無言で丸かぶりするという習わしだ。

全国的に火がついたのは、確かコンビニのCMだったと記憶している。

節分の日にスーパーへ行くと、恵方巻が小さなタイヤのように山積みになっている。

その光景はどこか異様で、そして多くの買い物客が験を担ぐように、反射的にかごへ放り込んでいく。

今年の恵方は南南東。その方角を向いて太巻きを丸かじりする人々を想像すると、なんとも奇妙で、少し可笑しい。

僕はあまり験を担ぐほうではないので、恵方巻を食べたことが一度もない。

翌日、愛犬と散歩をしていると、ふと昨日のことが頭に浮かんだ。

ほんのきつめの一言が思いがけず火種になり、些細なことで家人と言い合いになった。

気まずい空気のまま夕飯の時間になり、僕は皿を手に書斎へ引き上げ、ひとりでぶつぶつ文句を言いながら晩酌をした。

翌日、愛犬と散歩をしていると、ふと昨日のことが頭に浮かんだ。

あの喧嘩は、「感覚」と「論理」の違いから生まれたのではないだろうか。

私たちは日々、たくさんの選択と判断をしながら暮らしている。

朝の空気を吸い込んだ瞬間に「今日は良い日になりそうだ」と感じることもあれば、仕事では数字や事実を並べながら慎重に考えることもある。

そんなとき、静かに働いているのが「感覚」と「論理」だ。

感覚は、言葉になる前の“気づき”のようなものだ。

初めて訪れた店で「ここは落ち着く」と感じるとき、私たちは無意識のうちに照明の明るさや空気の匂い、店員の声のトーンなど、細かな情報を一瞬で受け取っている。

初対面の人に対して「この人は話しやすい」と感じるのも同じで、表情や間の取り方といった微細なサインを、身体が先に理解している。

ただ、感覚はときに過去の経験や思い込みに引っ張られる。

「なんとなく嫌だ」という感情の正体が、昔の記憶の残り香だった、ということもある。

一方で論理は、ゆっくりと状況を整理し、形にしてくれる存在だ。

家電を選ぶときに価格や性能、口コミを比較するのは論理の仕事だし、仕事で説明責任が求められる場面では、論理が頼りになる。

数字や事実を積み重ねることで、他の人にも納得してもらえる判断ができる。

ただ、論理にも限界がある。

転職や引っ越し、人間関係の節目など、人生の大きな選択は数字だけでは決められない。

どれだけ条件が整っていても、心が「違う」と告げることがある。

こうして見ていくと、感覚と論理はどちらが正しいかを競い合うものではなく、ただ役割が違うだけだとわかる。

感覚は最初の一歩を示し、論理はその道筋を整える。

どちらか一方だけでは判断は偏ってしまう。

大切なのは、このふたつを行き来することだ。

感覚で「いいかもしれない」と感じたら、論理で確かめてみる。

論理で「正しい」と思えたら、最後にもう一度、感覚に耳を澄ませてみる。

その往復が、判断に深みと安心感を与えてくれる。

どちらかを選ぶのではなく、ふたつを重ねていく。

その積み重ねが、人生の輪郭をやわらかく整えていくのかもしれない。

これからは夕飯前に喧嘩をするのはやめよう。

消化に悪いし、変な酔い方もする。

なにより、季節の節目を思い出す余裕もなくなってしまう。


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